ブログを書くのは久しぶり。
最近はそこそこの生活をしている感覚がある。
疾患類すべてが落ち着いており、何かしたいという欲みたいなものが感じられるようになった。
しかし今まで目の前の病気をどうするか?に必死で、ほかの事をあまり考えないできた。(仕事も色々あったし。)
何かしたいといってもそれは何か?よくわからない。
よくわからないものを考えるのが嫌で、病気を作り出して病気ばかり見ていれば何となく事足りている状況を自分で作り出してさえいた気がする。
やはり人間は経路依存性というか過去から知見を得るようで、とりあえずサッカーはできないので何かほかのスポーツを!ということで7年ぶりくらいに水泳に行ってきた。やはり運動は楽しい。難病なので障害者かどうかは怪しいが、障害者スポーツならばできそうなのでとりあえずその辺界隈をうろちょろしてみようと思う。色々試してしっくりくるものが見つかればよい。
ただ、運動したり遊んだりしていても、どうしても頭の片隅(大部分かもしれない)には、何かこの6年間で起きたことを昇華したい、どうにか自分のものにしてもやもや感を晴らしたいという感覚が抜けない。おそらく病気していなくても、自分の理想とするところに到達していたかというとそうではないと思うけれど、「病気」をうまくいかなかったことの原因にしてなんとなく納得してしまう自分、「病気」「障害」をかわいそうなもの・悪いものとしてみなす社会、そうした自分や社会を作り出しているものは一体何なのかを知りたくてたまらない。
そんな中、yahooのとある記事を読み障害学という学問があることを知った。
記事曰く、脱毛症の女性がスキンヘッドで外を歩くことにためらいを感じてしまうのは、女性は髪があって当然とみなす社会にその一因があると。
その女性が悪いわけではない。そういう風に考えることで女性はどこか晴れやかな気持ちで自信をもってスキンヘッドで過ごすことができるようになったという。
障害学が気になったので入門書を読んでみたが、まとめると
・健康志向を否定することはないが、そこに絶対的な価値は置かない。
・どのような状態であろうと、その人が社会参加して活き活きと生きていけることが大切
・生きづらさを感じている人が生きづらさを感じる場面で、相手が求めるのであれば、その人の選択や自立を手伝う。
一方的に支援対象であるとはみなさない。
・各人が納得解を得られる社会とその構築が大事。 みたいな感想を持った。
また、一方的に病気や障害を支援対象としてとらえない、その独自の肯定的側面や文化を構築していこうという考え方は非常に新鮮だった。その考え方に立って社会福祉の分野を学べば、「病気」とか「障害」をなんとなく否定的なものとして捉えて支援対象とみなしてしまう自分とそう思わせている社会を知れる気がしたし、病気を免罪符に生きている自分という感覚がなくなるのでは、自分の中のもやもやを昇華できるのではないかと思った。昇華できたならば、病気・障害を悪いもの・よくないものとみなす前に、純粋に困っている人や生きづらさを感じている人が社会参画できる、納得解を持てるような社会の構築に貢献出来うるのではないかと思うし、自分も自信をもって生きていけるようになる気がする。抽象的だが。
これは自分の中では避けては通れない感じがしている。スポーツや遊びで友人関係を構築したりする一方で、いわゆる勉強することが自分にとっては必要なんだろう。チャレンジしないといつまでもここで立ち止まってしまいそうだ。
下記は覚書。「障害学への招待」(石川准ほか)より
第1章
・障害学=障害を医学モデル(障害=福祉の対象)から社会モデル(障碍者独自の視点の確立、文化としての障害、障碍者としての生きる肯定的価値観の構築)へ転換させる試み
・インペアメントを持つ人を考慮せず、彼らを阻害する社会組織によって生み出された不利益や活動の制約(=ディスアビリティ)を問題とする。
・インペアメント・障害の持つ肯定的側面・文化の発信
→完全な組織・社会参画を指向する。
第3章
・どのような方法を選択するか自己決定すること=「自立」
・「自立」はできるのであれば1つの方法としてできたほうが良い。
しかし、それが何より価値のあるものか?それができるから価値があるか?とすれば
そうではない。ただ、絶対視する必要はないが大切なものの1つである。
第4章 出生前診断
・障害=「本人の不幸」と「家族の負担」という認識
→「障害があるからといって不幸ではない」 「家族の負担があってもそれは社会的に解決されるべき」と認識されている社会の構築があってこその出生前診断
第5章 優性思想
・福祉国家、近代的個人、自然状態は相互に優性思想を強めうる補完関係にある。
・障害を福祉国家は「コスト」「他社への依存」近代的個人は「低価値者」自然状態では「淘汰」というキーワードでとらえられる一面。
・上記概念を否定はしない。誰しも一人では生きているのではないという社会の絆、暴力へと転化する回路の遮断、自己決定能力や自立能力が過大評価されないようにする。
第7章
・構築主義からの知見。
・聾を「障害」「克服すべきもの」とする意味付けは専門家が自己アイデンティティを確立するものとして機能。ゆえに手話は否定されてきた。
・そもそも聾=障害と認識していることを自覚すべき。そこからスタートである。
第8章
・差異化(健常と障害)のヘゲモニーの掌握
① 一方的な差異化の不当性の告発
→内なる健常文化、健常者思想の破壊
② オルタナティヴな価値の創造
→障害にポジティヴな意味づけ、独自な価値を与える方向
第10章
・障害文化=健常者の役割期待に応えるものでもなく、対抗すべき他社の存在を前提とする必要もなく、独自に存立可能な文化
・障碍者の施設
→文化喪失状態、市民権喪失状態(civil death)に
→脱施設化:「福祉国家」は障害をカテゴライズする一面
→専門家支配の解体、「病院化」したアイデンティティの解体
→日常的支援体制の確立、地域で生きる、セルフセルプグループでの語り
2019年追記
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